2014/9/6 慶長遣欧使節の足跡をトレースする !DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"> 平成26年(2014)3 慶長遣欧使節の足跡をトレースする 2つの大洋を渡った支倉常長の行程図 はじめに ■ 伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節は、日本の外交史の中で非常に大きな足跡を残していた外交使節だっ た。2月21日のレポートでは、その使節の大使をつとめた支倉常長の横顔を紹介した。 ■...
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2014/9/6 慶長遣欧使節の足跡をトレースする !DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"> 平成26年(2014)3 慶長遣欧使節の足跡をトレースする 2つの大洋を渡った支倉常長の行程図 はじめに ■ 伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節は、日本の外交史の中で非常に大きな足跡を残していた外交使節だっ た。2月21日のレポートでは、その使節の大使をつとめた支倉常長の横顔を紹介した。 ■ 慶長18年9月15日(西暦1613年10月28日、月ノ浦(現・石巻市)を出発した使節の一行は、上に示したルート で2つの大洋を横断して、ヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)、エスパニア本国(現在のスペイン)、そしてイタリ アのローマを訪れた。往復7年間に及ぶこの大旅行の日々を支倉常長は几帳面に綴り、19冊の記録を残したそ うだ。その19冊の記録が現存しておれば、遣欧使節の足跡を具体的にたどることができ、円仁の『入唐求法巡 礼行記』と同等、あるいはそれ以上の旅行記として評価を受けたであろう。 ■ 19冊の記録は支倉家に伝わっていたが、寛永17年(1640)ころ没収され て、仙台藩評定所切支丹改所に保管されていた。しかし、徳川幕府のキリ シタンを禁じた鎖国政策の影響を受けて世に知られることはなかった。江 戸時代後期の蘭学者・大槻玄沢は、文化9年(1811)に玄沢はこれを散見し たことを『金城秘蘊(うん)』に記しているが、その後研究者の必死の探索に もかかわらず行方不明である。 ■ 常長が残した記録だけではない、遣欧使節の業績そのものすら、長い 間歴史の闇に埋め込まれてしまった。明治6年(1873)、明治新政府が派遣 した「岩倉具視使節団」がイタリアのヴェネチアを訪れた際、「支倉」の署名 が入った文書を発見するまで、250年以上も前に海外に雄飛した支倉常長 の足跡が明るみに出ることはなかった。 ■ 慶長遣欧使節の7年間に及ぶ 足跡をたどることはできないのだ http://www.bell.jp/pancho/k_diary-10/2014_03_01.htm 1/10
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